幼少期
子供の頃、熊本県宇土市という所で育ちました。「どこそこ?」と、おっしゃる方がほとんどだと思います。地理的には熊本市から天草に行く途中の海に近い、小さな田舎町です。
誰も信じてくれないかもしれませんが、私は、小学校時代、成績はほぼ全ての教科でそれなりでした。しかし、体育だけはどうしてもダメ。なかでも走るのが大の苦手。いつもビリ。当時、みんなが楽しみにしていた運動会も本当は、あまり好きではありませんでした。こんなスポーツ音痴という事もあり休み時間は、運動場で遊ぶよりも、図書館へ通う事が多かったように思います。しかし、読んだり借りたりする本はほとんど図鑑でした。特に生き物の図鑑が大好きで、絵や説明をノートに書き写していたのを覚えています。
学校が終わると、裏山や川で虫や鳥、魚などを捕まえて遊んでいました。また、休日には、父がよく魚釣りに連れて行ってくれました。家を早朝に出るのですが、途中とても奇妙な光景に遭遇していました。目的地に着くまでに、10人以上の人が並んでいる家が3件あるのです。不思議に思い父に尋ねました。
「何であんなにいっぱい人が並んでいるの?」すると、「あそこは歯医者さん。みんな順番待っているんだよ。」こんなに朝早くから歯医者さんは仕事しているのかと妙に感心しました。しかし、詳しく聞いてみると、歯で困っている人が実に多くて診療開始3時間も前から待っていることに驚きました。
この時、『大きくなったら困っているこんな人たちを助けてあげたい。』と車の中から思った事を今でも覚えています。
父は、私が一人っ子だったからでしょうか。とても優しく本当によく可愛がってくれました。キャッチボールがうまく出来ないと言うと、次の日にはグローブを買ってきて一緒に練習をしてくれたり、逆上がりが出来ないと言えば、庭に鉄棒を作って暗くなるまで一緒に練習してくれました。私は、そんな父が大好きでした。
ここだけの話ですが、父は当時、痔で苦しんでいました。また、歯が悪く、ずっと歯医者さん通いをしていました。そんなことから、「自分は将来、医者か歯医者になって、大好きなお父さんを助けてあげるんだ。」と強く思っていたのも事実です。
そんな父親との思い出で、今でも強く記憶に残っていることがあります。海に行った時のことです。物凄くキレイな場所に私を連れて行き、父はこう言いました。「お前がどんなに偉くなっても、どんなにお金持ちになってもこの海は買えないんだ。でも、どんなにみすぼらしくなってもここに来ればこのキレイな海に会えるからな。」地球の偉大さ、環境の大切さを言いたかったのかは分かりませんが、「偉くなってもおごるな、辛いときは意地を張らずいつでも帰ってきなさい。」と言われたようでした。
父は、私が何か悪いことをしても、怒鳴ったり、殴ったりする事は一度もありませんでした。「ここに座りなさい。」と言い、「何で叱られていると思う?」と言うのです。私が「これこれだと思う。」と言うと、「分かってるじゃないか。じゃあ、どうすればいい?」と言うので、「これこれこうすればいいと思う。」と言うと、「じゃあ、次からは、そうしなさい。」と言うだけの父親でした。父は裏表のない人でした。市役所の職員をしていて、生き方は下手だったかもしれませんが、そんな正直に生きる父親が私は大好きでした。
母は対照的に、小学校の教師ということもあり、躾にはかなり厳しかったと思います。例えば、「買わないなら、お店の物に触らないで。」「共同で使うものは次に使う人が使いやすいようにしておきなさい。」「洗濯物を出すときは、洗濯する人のことを考えて、洗いやすいように脱ぎなさい。」「地球に唾をはかないで。」などと厳しく言われました。特に、言葉遣いは厳しく躾けられました。「目上の人に対しては必ず、敬語を使いなさい。人間は、一生懸命生きているだけで偉いんだから。」と言われ育てられました。その影響からか、目上の人は尊敬する、環境に対しては気を使うというが自然と身に付いたのだと思います。
思春期
そのような小学校時代を過ごし中学に上がる時、私は地元の中学ではなく、中高六年間一貫教育プラス寮生活を活かした熊本屈指の進学校である、某私立中学への進学を両親に相談しました。しかし、とても不信がられました。それもそのはず、その頃、私はあまり勉強好きではなかったからです。
とても恥ずかしい話なのですが本当の理由はこうです。
当時、熊本県の中学校で坊主頭にならなくて済んだのはその中学だけでした。坊主頭になるのがどうしても嫌だったのです。ただそれだけの理由であり、あまりにも短絡的で、安易な考えで進学してしまいました。しかし、周りは大学進学を目標とし、その気で入学してきた者ばかりです。その雰囲気になじめず登校するのがいやになり寮は出るものの学校にはほとんど行っていませんでした。進級できるぎりぎりの日数しか登校しませんでした。
私は、あまり夢は見ないのですが、今でも見る夢といったら決まってこれです。計算間違いをして出席日数が足りず、進級発表の日にオロオロしている自分の姿。
こんな状態でも何とか中学は卒業させて貰いましたが、高校では更に理由のない学校への反抗と生活態度の悪さから退学させられてしまいました。その後も、態度が変わるでもなく毎日ブラブラ目的もなく過ごしていました。よくケンカもしました。
この時、父親との大きな葛藤がありました。高校を退学になり、毎日ぶらぶらしていても、父は何にも言いませんでした。たった一言、「人と違う人生は辛いぞ。それを分かってるやるのなら、それはそれでいい。」そう言われると、「自分のことを真剣に考えてくれてない。」「冷たくされている。」と感じ、子供の頃、あんなに可愛がってくれた父によく突っかかりました。また、母をどれだけ泣かせたか分かりません。
今、考えると父は、私に自分自身で考える力、解決する力を身に付けさせたかったのではないかと思います。そして、自分のことを本当に信じてくれていたのだと思います。しかし、それは、その時の私には分からない事でした。
当時を振り返ると、自分が何とも情けなくなります。母はもとより父に対しても大変申し訳なく思っています。
転機
こんな事が2年ほど続いたある日、ある方との出会いがありました。
それは、私のいとこの旦那さんでした。当時、40歳だったと思います。ぶらぶらしている私を見かねたのか「山に行こうよ。」と阿蘇山の高岳に連れて行かれました。その人から、「今、何してるの?」「何が好き?」「小さいとき、何になりたかったの?」といろいろ、聞かれて「そっちはどうなんですか?」と聞き返すと、生い立ちを話をしてくれました。全部は話してくれなかったのですが、その後、いとこから話を聞き出しました。
彼のお父さんは刑事だったそうです。彼が小学校1年のときに、犯人を追って大阪まで行って、そのまま行方がわからなくなった。父親の顔は全く覚えていない。母親は体が弱かったので、小学生の頃から海に出て漁をしながら家計を助けた。高校は、働きながら定時制に通い、大学も二部に入って、苦労を重ねながらも、九州東海大学の職員になり、ついには宇宙研究所の初代所長になった。
自分のことはあまりしゃべる人ではありませんでした。自分の苦労を、苦労と思ってない。そういう度量の大きさに私はショックを受けました。自分の生い立ちを不幸だとも思わず、自分でチャンスをつかんだのです。実際、目の前にそういう人がいるのを見て、私は思いました。
将来、こういう立派な人間になりたい。
そう思うと、自分は今まで、何をやってたいたのだろう?
小さい時から、医者か歯医者になりたいと思っていたのに。
このままじゃダメだ。何もやってないじゃないか!
そう思うと、私はすぐに高校の願書を取り寄せ、受験勉強を始めました。
それは私が17歳の10月のことでした。
翌年、私は高校に再入学しました。同い年が高校3年のときに、また、高校1年からやり直しました。しかし、焦りとか不安は全くありませんでした。私が入った高校が理数科系という特殊な学校だったため、既に留年している人、中学浪人して入学してきた人、年齢も様々だったので違和感はありませんでした。以前とは異なりこの時の、高校生活はとても楽しかったです。
進路を決めるとき、まっ先に、父に相談しました。「自分は肛門科の医者か歯医者になりたい。」と言うと、今まで「お前はどう思う?」としか言った事がなかった父が、「歯医者になれ。絶対歯医者がいい。」と間髪いれずに言ったのです。予想もしなかった答えに戸惑いながらも、今までの罪滅ぼしと親の喜ぶ顔が見たくて、歯学部に進むことを決意しました。
私は歯科医になって父に当時のことを聞いたことがありました。「何で、あの時、『歯医者になれ』って言ったの?」と聞くと、「今まで歯の治療費に相当使ったんで、おまえが歯医者になったら少しは安くして貰えるんじゃないかと思った。」と笑っていました。
大学時代6年間は勉強だけでなく、ワンダーフォーゲル部の部活動にも力を注ぎました。とても楽しく、有意義に過ごせた6年間でした。そして卒業後は一日も早く一流の臨床医になりたいと思っていました。
勤務医時代
大変名誉なことに大学卒業を控えた頃、小児歯科教室の教授から大学病院勤務のお誘いがありました。しかし、丁重にお断りしました。なぜなら、私には「夢」があったからです。幼い頃からの想いを実現させること。つまり、大好きな父を、歯で困っている多くの人たちを、何とかしてあげたいという想いです。この想いを実現させるために、一日も早く一人前の歯科医師になることが先決でした。有名な研究者よりも一流の臨床医になりたかったのです。
そこで、私は、銀座の友石歯科医院へ弟子入りし勉強するのでした。友石院長の診療技術は、大学病院では一度も見た事もないスピードと精密さでした。私もこんなテクニックを早く身に付けたいと必死で勉強しました。
当時を振り返るととても懐かしく思います。朝8時半に出勤し、まず便所掃除。診療中は院長のアシスタント。昼休みと診療終了後は、嫌がるスタッフに頼み込み練習台になってもらったり、模型を使って治療のトレーニングを積みました。毎日、15時間以上、必死で勤務しました。帰りは、ほとんど午後11時39分の終電。帰宅後は、夜中の1時、2時まで専門書を貪るように読みました。ほぼ毎日そんな生活が3年続きました。しかし、全く辛くはありませんでした。それは、診療に関する知識と技術を3年間で全て習得するという目標があったからだと思います。
銀座での3年間は診療技術のスピードと精密さを学びました。しかし、銀座と言う地域特殊性から小児は一度も診た事がありませんでした。
そこで、板橋区常盤台の濤岡歯科医院で1年半かけて小児歯科の勉強をさせてもらいました。この濤岡院長も、私にとって大変魅力的な方でした。私が今までに出合ったドクターの中で最も人間力と人間性を兼ね備えた方の一人です。
医院誕生
銀座という場所で、特定の人しか受けられなかった特別な治療を、もっと多くの人にも受けていただきたい。感動していただける歯科医療サービスをもっと提供したいと常々思っていました。そんな矢先、私のことをとても可愛がってくれていた妻の祖母から、この足立区平野町で開業してみないかと誘われました。何と言っても、妻(朝子ドクター)の地元です。そのような縁があって私は、ここを開業場所に選びました。
治療技術には絶対の自信がありました。また、丁寧な治療をすることも自分自身に誓いました。しかし、どんなに治療技術が優れていても、しっかり定期管理(定期クリーニング)していなかったら治療した歯はもたない事も知っていました。そのため、患者さんには予防指導も口うるさく言ってきました。銀座という場所では、この治療方針に全ての方が満足してくれました。
しかし、この足立区平野町では一所懸命やればやるほど、丁寧な治療をすればするほど、満足していただくよりも、不満を口にする人が増えてくるのでした。
「いつになったら治療終わるの?」
「予防はもういいから適当に終わらせてよ。
悪くなったらまたその時やり直すから。」
「痛くなったらまた来るから、
とりあえずここだけ早く治してよ。」・・・。
どうして自分たちの思いが伝わらないのか。なぜ歯の大切さを分かっていただけないのか。自分たちは、間違っていないという信念があるがゆえに大変悩みました。本当に辛かったです。しかし、当時、この思いが受け入れられないことで、一番辛かったのは地元出身の妻ではなかったかと思います。
長女誕生
平成4年10月7日。妊娠10ヶ月、最後の定期健診に妻が出かけました。妻は、出産前日まで診療を手伝ってくれました。「胎児の心音が弱まっています。このまま生ませます。」急きょ入院です。明くる日の8日、午前11時30分、病院から電話が入りました。「母子ともに元気です。しかし、担当医から直接お話があります。とにかく、至急、来院して下さい。」ええ、何があったのだろう。どうしたのだろう。妻も赤ちゃんも元気だと確かに言ったと思うけど、何ですぐ来いと言ったのだろう。心配で心配でたまりませんでした。交通違反を何回も繰り返し、猛スピードでお茶の水の病院に駆けつけました。
そこで院長先生から、耳にした言葉は、「血液検査をしなければ確定できませんが、お子さんは99%ダウン症です。」目の前が真っ白になりました。妻に何と言おう、どう伝えよう。とても悩みました。妻に本当のことを伝えました。一瞬の間があり、妻は叫びました。その後、私の腕の中へ泣き崩れました。情けないことに、わたしは、妻にかける言葉もなく、背中をさすってあげるのが精一杯でした。2時間ほど泣き続けたでしょうか、妻の口から最初に出てきた言葉は「ダウン症に関する本は全て買って来て!」でした。
そこには、かわいい妻というよりも、強い母の顔がありました。りっぱな母の顔がありました。思えば、この娘がいてくれたから今の自分たちがあるのだと思います。自分たちの人間観、宇宙観が全く変わってしまうほどのエネルギーをもらいました。命の荘厳さ、人間の尊厳、健康の大切さ、言葉にすれば簡単です。しかし、自分たちは、それらを肌で感じ取ることが出来ました。昔、母親に言われた「人間は、一生懸命生きているだけで凄いことなんだ。」ということを痛感しました。
予防診療システムの確立へ
長女の誕生により、私は待つ事を覚えました。話をただ押し付けるのではなく、自分の本当の気持ちを相手に気付いてもらえるよう心がけました。また、相手の話をよく聞くようになりました。
そして、この頃からです。「診療は自分ひとりでやっていんじゃない。チームメンバー全員でやっている。そして患者さんも一緒にD.Landを動かしているんだ」と強く思うようになってきたのは。
その時でした。板橋の濤岡院長がさらに偉大に感じられたのは。
歯の治療は、どんなに上手な歯科医師でも一度削った歯は元通りの健康な歯には戻せません。また、治療した歯は定期管理(定期クリーニングなど)しなければ、平均10年とは持たないのです。歯の病気は、かかり始めであればカリエスリスク検査に基づいた予防プログラムを実践すれば治ります。いったん悪くなったとしてもそれ以上悪くしない診断とコントロールがしっかりしていれば「生涯、自分の歯を守り、人生を明るく、楽しく、ワクワク過ごす」ことができるのです。
そのような診療ができるかどうかは、歯科医院の予防診療システムとチームメンバーの力、そして何よりクライアント(健康な患者さん)の「生涯、健康な歯でいたい」という強い想いによって決まります。
エピローグ
『夢』は、この予防診療システムを確立し、健康が何より大切だと思っている「健康な人たち」がいっぱい集まるワクワク楽しい、そして元気な歯科医院を作ることです。
つまり、医院のシステムとチームメンバーとクライアント(患者さん)とが一体化することです。そして、全国にこの予防診療システムを広め浸透させることです。そうすることで、生涯自分の歯で、美味しいものをより美味しく、楽しいときには満面の笑顔でより楽しく、毎日をワクワク元気に過ごせるとようになると思っています。
私は、娘から大きなエネルギーをもらっています。娘は、運動会にしろマラソン大会にしろいつもビリです。飛び抜けたビリです。しかし、最後まで全力でやり抜きます。もういいよと言っても最後まで絶対にあきらめません。私もこの娘に誓って「夢」は絶対にあきらめません。
そしてもう一つ、私には何より心強いものがあります。それは、私の誇るチームメンバーです。私と同じ『夢』に向かって一生懸命進んでくれます。場合によっては私以上にこの『夢』の実現を何よりも最優先に考えてくれます。
今、そんな素晴らしいチームメンバーに恵まれて私は誰よりも幸せです。
完